律令制の下で上国とされ、蝦夷と接する重要な位置にあった。隣の陸奥国もまた蝦夷に接していたが、両国を統括する政治的・軍事的中心は主に陸奥側におかれた。例として両国を統括する按察使は陸奥国守が兼任する慣行であった。陸奥国府には鎮守府が置かれ、平安時代後期以降、秋田城介が空位になると鎮守将軍(後に鎮守府将軍)が両国を軍事的に統括した。8世紀から9世紀初めには盛んに城柵が作られ、蝦夷との戦争をへてしだいに領域を北に拡大した。陸奥国と並び黄金を産した。
平安時代前期に陸奥側の北部4郡が放棄されたと見られるが、出羽側では国府と秋田城の統制が継続し、陸奥側と異なり俘囚の主とされる清原氏は、在庁官人として力を蓄えたと見られている。清原氏が後三年の役で滅亡した後、これにかわって奥州藤原氏が陸奥・出羽の支配者になったと一般的には言われているが、近年の研究では、この支配は陸奥北半分では一円的な領主的立場であるが、陸奥南部と出羽においては押領使や鎮守府将軍としての軍事指揮権に伴う在地領主の系列化と、荘園の管理権及び後鳥羽天皇御願所としての中尊寺を介しての寺領支配の複合的かつ間接的支配に止まったのではないかと指摘されている。
奥州藤原氏が、奥州合戦で滅亡し、残党が出羽で起こした大河兼任の乱も鎮圧されると、頼朝は、出羽国に橘氏(小鹿島氏)、平賀氏、小野寺氏、武藤氏(大宝寺氏)、大江氏(長井氏、寒河江氏等)等の御家人を地頭として配置した。しかし、由利地方以南はなおしばらく在地領主層(由利氏等)が在庁官人としての権益を保っていることが『吾妻鏡』に見える。葛西清重ら葛西氏が下総国葛西郡から奥州へ移り、平泉の統治を任され、奥州惣奉行職に就任して以後は、米代川流域も葛西氏の勢力範囲となった。
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中世前半を通じて北部では公領制、南部では荘園公領制が貫徹され、基本的には鎌倉政権の統制の元、国府留守所は維持されていたが、南北朝を境に領主間の争いが活発化し、津軽地方から蝦夷地を経て葛西氏に取って代わった檜山安東氏、橘氏に代わり湊安東氏、陸奥から移住した戸沢氏、小野寺氏、大宝寺氏、陸奥斯波氏の分かれである最上氏、陸奥から進出した伊達氏などが支配した。
江戸時代は、佐竹氏、岩城氏、六郷氏、酒井氏、戸沢氏、上杉氏などの大名が配置された。戊辰戦争時には奥羽越列藩同盟を結び旧幕府方についたが、佐竹氏が直後に離反、他の諸藩も各個撃破され酒井氏、上杉氏等は削封された。尾花沢代官陣屋が置かれた。